お寺から市民社会へ

お寺から市民社会
―社会活動と国際貢献に取り組んだ長尾憲彰師−
                        JIPPO専務理事 中村 尚司
 長尾憲彰さんに最後にお目にかかり、お話を伺ったのは2010年10月18日だった。古い友人であるフランスの映画監督Samy Pavel氏が来日し、京都を舞台に映画撮影をしたいという。日本、インド、タイそして欧米などをめぐる多文化の葛藤と交流をテーマにした“In a Small World”という映画である。古刹の建物や庭を背景にして、物語を進めることになっていた。いつもお願いばかりの一方的な関係だったが、その日も常寂光寺における撮影許可をお願いした。これまで長尾さんに頼みごとをして、断られたことは一度もない。難しい場合は、代案を示して下さる。気風の良い方である。長い闘病のやつれもなく、その日は快活に話されていた。映画撮影は、即座に許可していただいた。
 この映画では、タイ国の観光地パタヤを舞台にドイツ文化、インド文化そして日本文化がめぐり合い、新しい世界を拓いてゆく。最も長期間のロケをしたのは、タイのパタヤである。主人公が風俗産業で働く女性だということもあり、タイ政府の許可を得るのに時間がかかり、映画の完成が遅れた。2012年10月22日にバンコクの映画館で試写会ができるようになり、なんとか2013年3月のベルリン映画祭へのエントリーに間に合った。その報告をするため、常寂光寺に伺おうとしていた矢先に訃報が届いた。葬儀の場で隣に座った石田紀郎(市民環境研究所)さんと、東電福島原発被災地の放射性物質を除去する方法について話しながら、見通しの立たない除染事業でも、長尾さんが元気なら支援してくれるはずと口惜しかった。
 長尾さんに初めてお目にかかったのは、龍谷大学に転職した1984年4月1日だった。転職者同士の新米教員として、挨拶したのが始まりである。その日以来、京都生まれ京都育ちであるにもかかわらず、京都のことは何も知らない私に、京都の歴史や伝統を教えてくださった。それまで口にしたことのない京料理も、ずいぶんご馳走になった。
 長尾さんは、大学における一般教育の担当者(心理学)として、カリキュラム改革に熱心であった。龍谷大学には約200名の在日コーリアンが在学していたが、ほとんど全員が本名を名乗らず学生生活を送っていた。しかし、就職活動になると外国人とみなされ、厳しい排除の壁に阻まれる。日本生まれのため、母語を学ぶ機会も乏しい。長尾さんと共にコーリア語を第二語学の科目にしようと努めたが、日ごろは革新的なドイツ語やフランス語教員の反対が強く実現しなかった。新米教員の力不足を、思い知らされたものである。
 学内での制度改革がはかどらないまま、学外での市民運動で顔を合わす機会が徐々に増えた。長尾さんの紹介で、京都の環境運動の主要人物にも会えるようになった。全国的な運動にもつながるようになった。水俣市から駆けつけて、常寂光寺で一人芝居『天の魚』を演じていた砂田明(文学座出身)さんは、水俣を訪問するたびに、「乙女塚」のある自宅に泊めてくださった。
 長尾さんは河合隻雄(元文化庁長官)と同門の心理学者であったが、ユング派の精神分析理論には熱中しなかった。思い切りの良い人であり、定年よりも早く退職して、市民運動に力を注いだ。僧侶としても、身寄りのない女性の納骨堂を建設したりして、他者の追従を許さない画期的な仕事をされた。私自身は経済学を教えていたが、マーシャル以来の新古典派綜合理論には学問的な関心を持てなかった。次第に長尾さんの市民運動に追従していった。
 長尾さんと一緒に取り組んだ市民運動の中で、最も印象深い環境保全運動は、石垣島白保海岸の青サンゴ上に築かれる大型空港を阻止する闘いであった。石垣空港建設阻止運動は、長尾さんのご尽力がなければ、頓挫してしまっていたかもしれない。ロンドンのエコロジー運動の集会で報告したり、TV局チャンネル4で呼びかけたりした時も支援してもらった。公有水面埋め立て問題の理論家である熊本一規(明治学院大学)さんや私が石垣島調査に行く費用の一端は、長尾さんが負担してくださった。環境問題に取り組む運動において、主要な役割を演じながらも、長尾さんは謙虚な人柄であった。賛否が対立したり、会議が紛糾したりしても、自分の主張を強くすることが少なかった。対立する双方の話をていねいに聴き取りながら、いつも多くの人が納得できる解決案を用意していた。日頃から、宗教法人は収入の4分の1を、社会運動や国際貢献に役立てるべきだ、という持論を語り、そして自ら実行していた。(『朝日新聞』2012年12月8日夕刊の追悼文を参照)
 僧侶としての建前にはこだわらず、長尾さんが750ccの大型バイクに跨り、嵯峨野の細い道を縫って、颯爽と疾走されていた英姿を思い出す。乗用車に乗り換えるとき、「中村さんにナナハンを譲る」といってくれた。しかし、不恰好な私にナナハンは似つかわしくない。50cc原付のホンダ・カブに乗って、ぐずぐずと定年退職までバイク通勤を続けた。今となっては、臆病者の私が長尾さんの後塵を拝することも及ばない。不恰好ながらも、長尾さんの生き方から少しは学ぶつもりである。